大学生ってあれですよね、嬉しいのが自分だけじゃなくて世の中の大抵の人間が実は寂しがりやだったことがわかる。すごくすごく大切な時期だと思うんです。

カウンターでお酒を飲む二人があえて逃す終電。「まだいけるでしょ!」「いや~明日早いんですよ~」って言いながら向かうカラオケ。「今から海いかない?」で始まる真夜中のドライブ。

皆寂しさに負けてたまるか、悲しさを出してたまるかって耐えるんだと思うんですよね高校時代まで。それがストレスになることも。でも大学生になったら寂しがりやを表に出すことが、さっき書いたみたいな状態で、すこーーーーーしだけ可能になる。それだけで、実はすごく多くの人を救っていると思う。弱さを表に出せることの幸せ。寂しさを救うことよりなにより一番簡単な、無意識の救済処置がここにあると思うのです。

救いといえば、救いようのない言葉について逆にお話ししたいと思います。

皆さんは「『あとのまつり』を祈る」という論文知ってますでしょうか。私はこの論文がなんとなく好きです。タイトルもなんとなく好きです。なんででしょう。そもそも祈るって言葉がなんとなく好きです。
本当の本当に欲しいものや願いをこっそり胸に秘めて、目を瞑って、手を合わせて祈る。自分ではどうしようもないことだから、せめても、と祈る。
私を構成するもののひとつだから好きなんだと思う。面接で「あなたを一文字で表すと?」と聞かれたときの非模範解答、私の一文字。

きっとあの筆者は不器用でめんどくさい人柄だったんでしょう。私に似てたのかな。
私は今日もまた、今更どうしようないことを、多分もう取り返しのつかないことを、「どうにかなれ、もしかしたら」と祈りながら眠りにつきます。おやすみなさい。